創価学会の集団ストーカー

 

創価学会ついに「戒壇の大御本尊」を否定

これぞ極限の大謗法、無間地獄の業因

早く悪師を捨て、成仏願う大道念に立て

 

顕正新聞「学会員を救う特集号」(2015/1/25)より

 戒壇の大御本尊否定の経過を説明いたします。
 学会はこれまでも、会則を変更しては徐々に戒壇の大御本尊への信を薄めてきた。学会員から戒壇の大御本尊への信を抜き取ろうとしてきたのです。
 この動きは、宗門と抗争を始めた翌平成四年に、学会版経本の概念文から「本門戒壇の大御本尊」の九文字を削除したことにも表われてております。
 では、会則がどのように改変されてきたかを見ます。
 会則改変で問題になるのは「教義条項」、なかんずく「御本尊」についての改変です。

 当初の会則

まず昭和54年4月に制定された当初の会則では、学会が信受する「御本尊」について、次のように定められていた。
 『日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする』と。
 これは正しい。

 平成14年の改変

 ところが、平成14年3月にはこう改変される。
 『一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し』と。
 前会則にあった「本門戒壇の大御本尊」の九文字がスッポリと抜き取られて、曖昧な文言に差し換えられている。これが、学会員に戒壇の御本尊を捨てさせようと、会則レベルでの第一ステップです。

 今回の改変

 次いで本年(平成26年)11月7日、ついに次のごとく、決定的な改変をした。
 『根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ』と。
 「大御本尊」という文言すら抜き取られてしまった。これでは、どういう御本尊を信ずるのか全くわからないでしょう。いよいよ戒壇の大御本尊を全学会員に捨てさせる魔の本性を、ここに現したのです。
 今回のこの「教義条項」改変は、11月7日の総務会で議決され、同日の全国総県長会議で会長・原田稔がその内容を説明し、翌日の聖教新聞(11月8日付)で公表されたというものです。
 ところが、これほどの重大な発表にもかかわらず、その扱いは、聖教新聞第一面のトップではなく、左脇に目立たなぬように、機関決定した旨の報道がなされているだけ。
しかも会長・原田の説明は第三面掲載となっている。発表しながら目立たぬようにとの狡猾さが窺える。

会長原田稔の欺瞞を粉砕する

 さて原田稔の説明は、これまた欺瞞と謀りに満ちている。
 以下、その要点を挙げ、一々に破折を加える。

 「これまでは方便」

 彼は、平成14年改変の会則における『一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し』との文言の真意について、次のように説明した。

 当時、宗門との僧俗和合時代に信仰実践に励んできた会員の皆様の感情や歴史的な過程を踏まえ、この「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」については、「弘安二年の大御本尊」を指すとの説明を行なっていました。

これまで、「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」とは「弘安二年の大御本尊」を指すと説明してきたが、これは長い間、戒壇の大御本尊を信じてきた会員たちの感情を配慮しての方便だったと。ゆえに今回「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ」に変えたのだ−−−と言っているのです。

 「御本尊は全て同じ」

では、この「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ」とは何なのか。原田は言う。

 大聖人は、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされました。(中略)日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく「本門の本尊」であります。

 原田はここで「御本尊はどれも同じ」と言いたいのです。すなわち「戒壇の大御本尊も、歴代上人書写の御本尊も同じだ」と言わんとしているのです。
 その魂胆は、戒壇の大御本尊を捨てて、学会が新たに建設した「公宣流布大誓堂」と称する総本部に安置した、第64世・日昇上人書写の御本尊を、学会の根本の本尊にしようとしているのです。

 バカを言ってはいけない−−−。

 戒壇の大御本尊を離れて、歴代上人書写の御本尊があるわけがないではないか。
戒壇の大御本尊こそ根源、歴代上人書写の御本尊はその分身です。
 ゆえに「之を書写し奉る」との御認めがある。「之」とはまさしく本門戒壇の大御本尊の御事である。
 「奉書写之 嫡々第○世 判形」のお認めこそ、まさに御本尊の活眼であられる。
 そしてこの歴代書写の御本尊を即戒壇の大本尊と深く信受し奉ればこそ、即身成仏の大功徳も頂けるのである。

 「電源と端末」

さらに原田は言う。

 ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという、あたかも”電源と端子”の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広宣流布を阻害するものとなりかねない。

 ますます戒壇の大御本尊を捨て奉る邪悪の低意をここに露にしている。
 原田は、富士大石寺ににまします戒壇の大御本尊を根本とせず、”すべての御本尊は同じ”と、ここで重ねて述べているのだ。

 根源と分身

 繰り返して言う。
 戒壇の大御本尊は根源、歴代書写の御本尊はその分身。根源を離れては分身は有り得ない。戒壇の大御本尊とつながっていればこそ、分身の御本尊にまた凡夫を仏にして下さる力用がましますのだ。この関係は、原田がいみじくも言った「電源と端子」そのものなのである。
 だが原田は「電源と端子の関係であるかのような本尊観は・・・かえって世界広宣流布を阻害する」と言う。これこそ顛倒(てんとう)の誑言(おうげん)である。

 戒壇の大御本尊こそ世界広布の根源

 原田よ、よいか。戒壇の大御本尊こそ世界広布の根源であられる。そして、この大御本尊を全人類に信ぜしめ、唱えせしむることを、世界広布というのである。
 ゆえに日寛上人は撰時抄文段に
 「問う、文底奥秘の大法その体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一、本門戒壇の御本尊の御事なり。故に顕仏未来記に云く『本門の本尊の妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめん』等云云。故に此の本尊は広布の根源なり」と。
 「此の本尊は広布の根源なり」と仰せられているではないか。
一閻浮提広宣流布の根源の戒壇の大御本尊を捨てて、何が世界広布か。
 だいいち、学会の「大誓堂」安置の本尊は、第64世日昇上人が戒壇の大御本尊を書写し奉ったものではないか。いま根源を捨てて分身に拘るとは矛盾のきわみ。この戯言を”頭かくして尻かくさず”という。

また原田は「世界広布、世界広布」としきりに強調が、日本の広宣流布・国立戒壇建立という重大事はどうなったのか。「正本堂で広宣流布達成」などとウソをついたから、今さら触れられないのであろう。

 学会が戒壇の大御本尊を捨てた理由

さらに原田は言う。

 創価学会は、大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために、宗門と僧俗和合し、弘安2年の御本尊を信受してきました。
 しかし、宗門はいつしか堕落し、衣の権威を笠に着て信者を蔑視し、創価学会を破門する暴挙に出ました。さらに法主詐称者(ほっすさしょうしゃ)の出現によって、永遠に法主が不在となり、宗門のいう法主が不在となり、宗門のいう法主の血脈なるものも断絶しました。大石寺はすでに大謗法(だいほうぼう)の地と化し、世界広宣流布を目指す創価学会とは全く無関係の存在となったのであります。

 ここに原田は、学会が戒壇の大御本尊を捨てるに至った理由を挙げている。その理由は三つ。
 一には、宗門が堕落し、創価学会を破門する暴挙に出たこと。
 二には、法主詐称者の出現によって、法主の血脈が断絶したこと。
 三には、その結果、大石寺が大謗法の地と化したこと−−−としている。

 原田、御遺命破壊と顕正会の諫暁(かんぎょう)を隠す

 原田はここに重大なことを二つ隠している。それは学会が御遺命を破壊せんとしたことと、顕正会の諫暁である。
 すなわち、まず学会が日蓮大聖人の御遺命たる国立戒壇を否定せんとして偽戒壇・正本堂を建てた。宗門の細井日達・阿部日顕の両貫頭(法主・管長)は諂ってこの大悪事に協力した。このとき顕正会が身を捨てて諫暁に立ち、この諫暁によって学会・宗門に亀裂・抗争が起き、その結果「破門騒ぎ」が起き「法主詐称者」も出た−−−ということである。
 この重大なる事実を隠して、「破門の暴挙」などと被害者ぶってはいけない。

 このことを理解するには、日蓮大聖人の御遺命がどのように破壊されんとしたかの経過を知らねばならない。

 御遺命とは何か

 まず、日蓮大聖人の御遺命とは何かを説明する。
 この大事を御教示下された御書が、御入滅の年の弘安5年に著わし給うた一期弘法付嘱書(いちごぐほうふぞくしょ)と三大秘法抄の二書である。
 一期弘法抄は申すまでもなく二祖日興上人への御付嘱状である。これを拝せば
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。 国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。時の戒法と謂うは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり」と。
 また三大秘法抄には
 「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の及往(むかし)を末法濁悪(まっぽうじょくあく)の未来に移さん時
 勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可(べ)き者か。時を待つべきのみ。事の戒壇と申すは是れなり。
 三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下(らいげ)して?(ふ)み給うべき戒壇なり」
と。
 以下の御聖文に示された御遺命の本門戒壇とは
 まさしく「広宣流布の暁に、国家意思の表現を以て、富士山天生原(あもうがはら)に建立される国立戒壇」である。そしてこれを事の戒壇と称する。

 国立戒壇建立こそ仏国実現の秘術

 この国立戒壇に、日蓮大聖人の御法魂たる「本門戒壇の大御本尊」を安置し奉れば、日本の魂は日蓮大聖人となる。このとき「日蓮は日本の人の魂なり」との仰せが事相となる。御本仏を魂とする国はまさに仏国ではないか。この仏国は三災七難にも侵されない。「立正安国」は始めてここに実現するのだ。
 まさに国立戒壇こそ、日本を仏国にする唯一の秘術なのである。
 ただし御在世には未だその時いたらず、よって大聖人はこの一大事を二祖日興上人に御遺命あそばされた。
 以来、国立戒壇は宗門の唯一の悲願・宿願となって来たのである。